「カンボジアの小学校訪問」で見た〝学びの本質〟と、日本人が学校教育で忘れてしまったこと【西岡正樹】
分からない問題を解こうと必死に取り組む姿勢がここにはある
経緯が長くなってしまったが、さて、算数の授業に戻ろう。
授業を参観する時、私は、 「この人はこういう授業をするだろうな」と自分なりに予想を立てながら授業を観ることが多い。今回も予想を立てながら観ていたのだが、今回に限り私の予想はことごとく外れた。それも、きっと私だけが予想を外したのではないだろうな、と思えるような展開だった。
チャンナ先生はプリントを配り、資料を配った後、前回学んだことを復習する活動に入るだろうと思いきや、それは行わなかった。そればかりか「分からないところがあったらこの資料を見て、みんなでやってみてください」なんとすぐさま、子どもたちに丸投げしたのだ。
教師が子どもに丸投げをする時は、このクラスの子どもたちが教師の言葉を必要としないぐらいに理解が進んでいると判断しているか、教師が余計なことを言ってしまうと子どもたちを混乱させてしまうのではないかと判断しているかのどちらかだと思うのだが、チャンナ先生の気持ちは測りかねる。しかし、丸投げされた女性や子どもたちは、それが当たり前であるかのように、それぞれのペースでやり始めたことも少なからず驚かされた。きっとこれまでもこのような流れで授業は進んできたのだろう。
私はあるグループに引き寄せられた。大きな声が近くから聴こえてきたからだ。私は自然な流れとして、そのグループに注目した。頭に浮かんだことをすべて言葉にしてしまう女性がグループを仕切っている。名前はティエン(仮名)。まず、4人で問題文を声に出して読み始めた。当然のことのようにティエンは周りに聞こえる音量で読み進めていく。しかし、彼女の表情は晴れない。「分からないな」という心の声が漏れ出ているのだ。
このグループは工房に入りたての若い女性ジウ(仮名)と男の子ソン(仮名)、そして女の子フーン(仮名)の4人だが、ティエン以外は辺りに聞こえるような声を出さない。読み始めて少し時間が経ったところで、4人は問題文を数直線に表し始めた。全員が数直線を書き始めたということは、これもまたこれまでの取り組みの一連の流れなのだろう。しかし、このグループには、数直線を正確に書けている者は、1人もいなかった。
工房に入りたてのジウは、数直線を少ししか書いていないが、そこまでは間違ってはいないのだが、それから先がなかなか進まない。ソンとフーンは壊滅的だ。問題文を読み解くことができないのだろう。しきりに大人たちの図を見ながら書こうとしている。しかし、数直線の意味が理解されていないのでうまく書けない。子どもたちは問題文を読むのではなく、大人たちの顔を見ながら思案している。そんな中でも、自分の頭の中の混乱を言葉に表しながら、必死に問題を解こうとするティエンの奮闘が、子どもたちを支えている。
ティエンは文脈を捉えきれていないので、この問題の全体像をイメージすることができない。しかし、部分的にではあるが、かすかにイメージできることを言語化していく。そして
「あなたたちはどう思うの? 考えなさいよ」
必死に問いかけるのだ。そんな姿からも解決の糸口を必死に見つけようとしているティエンの強い思いは、子どもたちにも確実に伝わっていく。